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【本】対話する人間

対話する人間 (講談社プラスアルファ文庫)

河合 隼雄 / 講談社



河合隼雄さんの「対話する人間」」という本を読みました。この本は1992年に出されたもので、もう20年前になるのですが、今読んでもまったく古くなく、とても良い本でした。

育児に関連した話題ばかりではなく、現代日本を生きる人にとって何かしら響くところのある本だと思うのですが、育児中の私にとってはやはり子どもとの関係性のくだりが特に印象に残りました。

乳幼児期の育児を抜けて、子どもの思春期についても少し考えるようになった人に特におすすめかもしれません。

以下特に心に残った言葉を紹介したいと思います。


◆ 心のエネルギーを使う

この本の中で河合先生が繰り返し使っていた言葉に「心のエネルギーを使う」というものがありました。

日本の親にとって、いまいちばん大切なことは、子どもが悪いことをしていても、それを見ながら堪えるということである。自分は食べたいものを我慢してでも、子どもを塾に通わせるのがよい親であると考えている人は多い。これは明らかに間違っていて、日本の親は、お金は使うが心のエネルギーを使おうとはしない。過保護でもなんでもないのである。


子どもが悪いことをしたり、塾通いをやめて成績が落ちたりしたときに、子ども自らの力での克服を待つために心のエネルギーを使うのが、ほんとうの親の愛情ではないだろうか。


結局のところ、要約していえば、子どもに悪の体験をしてもらうのもよいが、これはむしろ、「放っておく」のが良い。これからの親は、「何かをする」とかに対してではなく、むしろ「何かをしない」という愛情のために心のエネルギーを使うべきである。


この話を聞いて、親は子どもを怒鳴ったほうがいいと単純に結論を出さないでいただきたい。子どもが望んでいることは、親が自分の全力をかけて、自分に立ち向かってくれることなのである。親はその点を知らず、なんとか「よい方法」で自体をおさめようとする。しかし、「よい方法」というのは、端的にいえば母親が子どもに対して自分の力の出し惜しみをすることではなかろうか。



子どもが本心で求めていることは、表面的に欲求を満たしてもらうことではなく、親が心のエネルギーを使うことなんだということ。すごくわかる気がします。

それから最後の引用箇所の「良い方法が出し惜しみ」という言葉には、はっとさせられました。

7歳、3歳の子どもたちの扱いにもてこずることが多くて、なんとかうまく自分をコントロールできるように、つい怒ってしまったり、あるいは一貫しないことを言ってしまわないしないように、あるときは育児書を読んだり、人の言葉を聴いたり、それを自分で試してみて、「よい方法」を探る毎日です。

「よい方法を求めること」、「上手に子どもたちと付き合おう」とすることは、もちろん悪いことではないと思うのですが、別の見方をすれば、確かに心のエネルギーを使わずにうまくやりたいという気持ちが根底にあるのかも。。

悪気はまったくなくやっていたことで、これからもそうしていくとは思うのですが、それだけでうまくいかない時が来たとき、この考え方が効きそうな気がします(→という考え方も、やはりよい方法を求めてる姿勢なんですが^^;)

子どもの要求に答えられなくて、お互い対立してしまったり、もめたりすることがあっても、しんどいけど、親がそこで力を出し惜しみせず、エネルギーをそこに注いでいれば、大丈夫なんだろうなという気もしました。


◆ 前者の泥にまみれて、後者に気づく

「所有愛」と「育てる愛」との差を知りながら、前者の泥にまみれて、後者に気づくところがいいところではなかろうか。


「所有愛」というのは、子どもを自分の所有物とみなし、子どもの自由を認めたくない気持ち、「育てる愛」は、子どもを育てることに愛情を感じ、子の自由を許せる気持ち。子離れについての一節の中に出てきた言葉。もちろん後者が理想なわけですが、河合先生は、「凡人ははじめから高望みをしないことだ」と言います。

私はこの「前者の泥にまみれて」という言葉に、惹かれました。

所有愛に限った話ではなく、凡人の私が、こんな人間でいたい、こんな親でありたい、といくら思っても、いつもその理想の自分でいられるわけではなく、間違いもたくさんおかしながら、時には、子どもや周りの人にみっともない姿をさらしながら、泥にまみれてやっていくしかないんだな、と、むしろそれでいいんだ、とちょっと安心するような気持ちになりました。



◆ 母親の父親に対する態度がきわめて大切なものとなる

父親のはたらいている姿を子どもたちは見ないにしても、母親のはたらいている姿はよく見えます。そこで、子どもは母親を尊敬し、愛することは容易なのです。その母親が父親を尊敬し、父親を認めているときは、子どもは母親を通じて父親の姿を認め、尊敬するようになるものです。したがって、母親の父親に対する態度がきわめて大切なものとなり、父親と母親との関係、つまり、夫婦関係が子どもを育てるうえでも重要となってくるのです。


中々耳が痛いお話でした^^;

現在夫が単身赴任中の我が家。夫のだらしないところなどをつい子どもに愚痴ってしまうことがあったのですが、不在がちな父親の悪口を子どもに言うというのは本当にいけないことだと猛省(しかも、愚痴を子どもにいうのは単なる私の不満のはけ口にしてるってことだから最悪><)

これは夫に対して申し訳ないだけでなく、これから成長していく子ども達の心にとっても非常によくないこと。胸に刻みます。


◆ 本来子どもというものは、多層的、多義的な存在であり、悪を含むものなのである。

攻撃力については、われわれが生きていくためには、他人を攻撃したり、やっつけたりする力があって当然なわけで、いわば活動力の発揮である。子ども同士のケンカやなぐりあいは、現在のわが国では、子ども人口が減り、母親の労力が減ったために親の監視が行き届いている。ところが、監視をしている親があくの意味を知っていればいいのだが、多くの親はよい子を育てようとして、単層的、単純な「よい子イメージ」を子どもに押し付けてしまう。本来子どもというものは、多層的、多義的な存在であり、悪を含むものなのである。
親の監視が行き届きすぎて、子どもは悪いことや失敗を通じて成長していく機会を奪われているのだ。したがって、片寄った「よい子」ができてしまう。私が強調したいのは、この種の「よい子」についてである。


「悪を含むもの」という言葉にはドキッとしますが、確かに人間という存在が善ばかりでてきてるとは到底思えない。子どもが悪いことをすると、親としてそこを正さなければということにばかり目が行きがちですが、もう少し「悪を含む」ということを受け入れた上で、子どもと付き合っていった方が良いのかもしれないなと思いました。


◆ 「おくれ」を大切にすることが、やすらぎにつながるのを忘れてはならない。

これは、大江健三郎さんの「キルプの軍団」という小説の中で、主人公の知恵おくれのお兄さんのことを、紹介した後に出てくる言葉です。

知恵おくれの兄さんのことばは、ずっしりとした重みをもっていた。おそらく、現代の人間は、前に進むことにばかり気をとられ、いかに早く、いかに遠くへ進むかにばかり熱心になっているうちに、体が宙に浮いてしまって、まったく不安定になってしまっているのではなかろうか。そんなときに、「おくれ」を生きているということが、宙に浮いた足を地につけ、やすらぎを与える力をもたらすのではなかろうか。


この「おくれ」という言葉は、その知恵おくれから引いて使われた言葉ですが、知恵おくれだけを意味しているわけではありません。下のような一節もありました。

リゾートに行っても、人より早く行動し、だれよりも多く体を動かし、誰よりも多く楽しみ、などと考えていると、足をすくわれてしまう。「おくれ」を大切にすることが、やすらぎにつながるのを忘れてはならない。心のリゾート探しもあせるのがいちばん禁物である。ともかく、ゆっくりとやることである。


子どもを相手にしていると、無駄に時間を使わされていると感じてイライラすることが多々あります。特に3歳の娘なんか、これを自分でやりたいとか、出がけになってやっぱり着替えるとかなんとか、朝の急いでいる時間に言われると本当に大変^^;

でも、ふと考えると、そんなに急いで私は何をしたいんだろう、って思います。別に少しくらい遅れたっていいかと思って、子どものペースに合わせることができた時こそ、豊かな時間だったり、またそんな時間に、子どもから癒されたり、やすらぎを与えてもらっているのかなと思いました。

まぁ、中々いつもそんな風には思えませんがw

忙しくて、やりたいことがたくさんあって、限られた時間の中で、どれだけやりたいことをできるかということに日々汲々としてる私にとっては考えさせられる言葉でした。

他にもたくさん良い言葉がありました。読む人によって、響くところがまた違うと思います。
おすすめなのでぜひ読んでください。
by lucie1104 | 2012-10-12 06:14 | 育児


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